2月のアトリエ計画《子どもに自由に生きて欲しいと思うなら》

お知らせ

 アトリエの庭に毎日霜柱が立って、朝は水仙の澄んだ香りが冷たい風の中に感じられます。皆さん寒い毎日ですがお元気ですか。1月末から市内の小中学校がオンラインになりいつもと違った毎日を過ごしているのではないでしょうか。アトリエを継続していくかは大変迷いましたが、この2月は感染対策に一層気をつけながら継続していくことに致しました。休会等は各ご家庭の一番良いと考える判断をしていただいて構いません。早く誰もが安心して行きたい場所、やりたい事を思い切りできる様になるよう願っています。

結局自分で決めるしかない 

 さて、近年コロナ禍の中で私たちは様々な判断を自分の力で下さなければならない局面に何度も立たされてきた様に思います。この数年は、今まで何となく世間の流れで判断したり、正しいと思ってきた事を、改めて自分にとって本当に正しいことは自分のものさしで考えて決めるしかないと確認させられる転換期であった様にも思います。色々な基準の中で揺れながら、迷うの時はいつも自分のものではないものさしに合わせるべきかどうかといった点で迷っているのであって、実際は既にある自分の決断が見えなくなっている事が問題なのだなあと考えていました。

本当の自由の意味

 そんな時、昔アントロポゾフィー医療の講座を受けていた時の山本忍先生の言葉が何度も胸に浮かび上がってきました。その講座はシュタイナーの人智学共同体ひびきの村のサマースクールでの講座で、子育てや人生についての学びを得るために集まったメンバーの中から様々な質問がアントロポゾフィー医療を実践される山本忍先生に投げかけられました。食について・予防接種について・子どもの歯列矯正について・ステロイド治療について…私も山本先生が何と答えるのか興味深く耳を傾けていました。山本先生は少しの沈黙の後ゆっくりと話し始めました。「僕ね、赤ちゃんに聞いてみたことがある。君はどうしたい?って。勿論赤ちゃんは言葉では応えないけど、でも僕は赤ちゃんの声が聞こえる。そしたらなんていったと思う?「お母さんが、僕のためにちゃんと悩んで決めてくれた事ならどっちでもいいよ。」そう言っていたんだよね。」その言葉を聞いた直後、私はは少し拍子抜けしたような気持ちでした。でもその後何年も経ってこの言葉の意味を少しづつ深く理解できてきた様に思うのです。その時はまだ、心のどこかで何が正しいのか誰かに決めて欲しいと思っていました。

 今になって、どんな判断も自分で考えて下した決断が1番正しい。その判断によって責任や困難に直面したとしても、それを乗り越えていく経験を通して成長していくことも含めて、あなたが決めた事があなた方親子にとって最も正しい判断なんだよ。という意味なのではないかと思います。そしてこの決めたことの責任を受け入れる覚悟を持って決断できるという事が本当の「自由」の意味なのではないかと思います。

子どもに決めさせる前に、親が子どものために決断するその姿を示すこと。

12月のアトリエ計画《子どもの気持ちに寄り添うとは》で子ども達が既に持っている答えを引き出してあげる関わりが大切だと思うといった話を書きました。

勿論子どもの気持ちに寄り添ってその感情に理解を示す事は大切です。その感情を洗い出していく作業の中で子ども自身も自らの本当の気持ちに気付いて決断できる様になるからです。しかし、何でも子ども自身に決めさせる事が良いかというと私はそうは思いません。子どもの要求に応えて決めさせてあげる事と自由に生きる力を手に入れることとは違うと思うのです。

子どもの領域において子どもが自分で答えを出すこと。大人の領域において大人が自分で決断する姿を子どもに示すこと。この二つが子どもが自由に生きる力を育むために大切なことだと思うのです。

子どもが決める領域・大人が決める領域

では、子どもの領域、大人の領域とは何でしょう。それは子どもが責任の取れる範囲と大人が責任を取るべき範囲。ということだと私は考えています。時間の事、金銭感覚の事、健康の事、善悪のこと、問題が生じた時に大人が責任を取る事になる事は大人が譲らず決めて良いのだと思います。大人は我が子の気持ちが分かるからこそ譲歩してあげたい事はたくさんあります。自分が子どもの頃、わかってもらえず悲しい思いをしたり、ぐっと涙を溜めて我慢した事があるからこそ、大人の都合で我が子に理不尽な思いをさせたくない。そう思って少しづつ我が子の要求に応えているうちに、子ども自身が感情の迷子になってしまい底知れない不安を抱えてしまうことがあるように思います。それは自分で責任の取れないところまで自由を広げすぎてしまったことから来る恐怖なのではないかと思うのです。大人の判断で「それ以上はいけません。」そう言った時、一時的に反発をもらう事になってもそれは深いところで子どもを守ることになるし、子ども自身深いところでホッとしている。そんなことがある様に思います。

教室でテーマを設ける事には意味がある

例えばアトリエ教室ではテーマや材料を限定して制作をする事が多いです。子ども達に「ええ〜、自由がいいよぉ〜。」そんな風に言われる時、内心うぐぐ。自由にしてあげたいという気持ちは出て来るのです。でも材料の調達や制作過程や日程を考え道具やスペース、安全を考え完成まで興味を持って漕ぎつける事が出来るかと思うとそれはまだ難しい。だからそれらの責任は全部私が負うよという決意を持って「今回はこれでやります。でもその中ではどんな表現をしても自由です。」とあえて言い切ります。そうすると初めは不満を言っていた子達も大枠の決まりの中で自由に発展的な制作を安心して楽しみ始めます。その表現は濃く濃縮されていて、度々私もびっくりする様なやり切った完成度の高い作品が生まれて来るのです。全くの自由な制作で失敗や、多少の怪我を繰り返して創り出す経験があっても良いとは思います。でもそんな自由な制作のための力をつける経験を沢山してほしい。そんな思いで、いつもアトリエのテーマはその時の子ども達の興味や理解に沿って考え出しているのです。好きに自由にやって良いとしても、好きに自由にやるだけの力が備わっていなければ、それは本当の意味では不自由なのではないかと思うのです。

大海原に漕ぎ出していける力をつける活動

 私はアトリエでの活動を海に例えて話すことがあります。アトリエでの活動はプールから海水浴場へそして向こうの島まで遠泳へ、少しづつ目標を広げて力を付けて、やがては自分の手で舟を造って大海原へ漕ぎ出していく為の力を付けていって欲しい。海へ初めて来た子へいきなり自由にどうぞというと、はじめは元気に駆け出して行ってもある所まで行って恐ろしくなって帰って来るか、怖くない所で知っている範囲で遊ぶことを繰り返すのではないでしょうか。もちろんそうやって学べることもあるし、例外もあるでしょう。でもアトリエで少しの決まりを作るのはみんなが自分の力でどこまでもいける力と自信をつける為。本当に自由にこの世界を旅していけるため、そう思っています。

我が子を傷つけたくないのが親だけれど

そんな私も親としていつも勇敢に決断をしているかというと、そんな事は無いのです。今までも沢山ブレて迷って躓いて反省してきました。一昨年の夏は心待ちにしていた旅行をキャンセルするか否かで散々悩みました。情けない事に娘に「ねぇ、どうしたい?」なんて聞いていました。娘もとても楽しみにしていた旅行、キャンセルしたら凄くがっかりする事は分かっていたのです。しかしコロナ禍の状況を見ていよいよキャンセルを決意して手続きを済ませ、娘に「今年は行かない事にした。もうキャンセルもした。」と伝えた時、娘から返って来た言葉はあっけらかんと「決めてくれてありがとう。ほっとした。」でした。やっぱりこういう事は大人が決めなきゃいけない。自分が揺れ続けることで不安にさせていたんだな。と反省したのでした。

これがもう少し小さな子だと、がっかりして泣いたり怒ったりするでしょう。その姿を見て親は自分の判断を責めたり正しい判断だったかと不安に思ったりするかも知れません。でも「行きたかったよねぇ。ほんと行きたっかたよね。でも今年は行かない。また計画しよう。」と感情に寄り添い、理不尽な思いの吐け口になってあげる事ができたらそれで良いのではないかと思います。親が我が子の為に悩んで決めた事は正しい。それで一時的に悪者になっても、そうやって泣いたり笑ったり怒ったりして乗り越えていくことも含めて正しいのだと今は思えるのです。

全部受け止める覚悟で、子どもにとって本当に正しいと思えることを勇気を持って決断する。間違っていると思うことは正していく。それが時に自分本位であっても決断によって生じる感情のフラストレーションを受け止める気持ちを持っているなら、それは愛情なのだと思います。

小学5年生女の子の作品

2月の予定

うみ・なみクラステーマ「乗り物に乗って旅に出ようⅡ」絵    

    月曜クラス 7・14・21

    火曜クラス 8・15・22

    水曜クラス 9・16・2

3月の予定

月(にじ,ふね)7・14・21

火(くも,うみ)8・15・22

水(なみ)9・16・23